2011年7月26日

手押し式草取り機

    二宮尊徳いわく
        上農は 草を見ずして 草を取り
        中農は 草を見て 草を取り
        下農は 草を見て 草を取らず




今年の田んぼは、金魚草のような葉の細かい草が、水の中にビッシリと生えていて、とてもとても手では取りきれないので、どうすべきか思案していた。




そこで、近所から借りてきたのがこれ。


この「手押し草取り機」は中々優れもので、歩きながらハンドルを押すと二つの歯が回転し、草を抜き取る仕組みになっている。


株間の狭いところは手で抜くしかないが、それ以外はこれで事足りる。


本当は、もっと草が小さい時に草取りをすれば、更に楽に作業が出来る思うが、アッという間に草は大きくなってしまうので、毎年”上農”になる機会を逃している。





2011年7月23日

白間津のオオマチ


私んが現在住んでいる鴨川から、南へ25キロほど下ったところに千倉と言う町がある。
そこで、4年に一度の奇祭「白間津オオマチ」が行われると聞き、興味を引いたので出かけてきた。


千倉町白間津(シラマヅ)というところは、南房総では良くみられる小さな漁村である。

その港から、家々が立ち並ぶ細い、迷路のような道を山に向かって歩いていくと、突然視界が開けた所に出る。

そこに、この祭りの御神体が収められている日枝神社がある。
この神社は1100年の歴史があるそうだが、神殿へ向かう急な石段を登り海の方を見渡すと、この村が海と山とに挟まれた、半農半漁の村として生きてきたことが良く分かる。


この祭りは白間津の、老若男女全てが参加して行われるが、
私が一番興味を持ったのは「仲立ち」と呼ばれる二人の少年だ。
左が日天(ニッテン) 右が月天(ガッテン)   
この少年は祭礼の2ヵ月前から、家族とは別々の食事をとり、世話役は老人があたる精進潔斎が行われる。そして毎朝、夜明け前に海岸に出て、一升瓶に砂をつめて神社に供える「潮垢離」(ショゴリ)続ける。



そして、この二人は祭礼の日に”神の子”となる。
(今どきの少年に、このように長期間、戒律を守らせるのは並大抵のことでは無い)



「仲立ち」とはも、ちろん神と人との仲を取り持つ存在だが、それが日天=太陽の神、月天=月の神として表れるのがおもしろい。

何の資料も無いので、その歴史的経緯は分からないが、漁師として海に出て、また百姓として田を耕すというこの村の生活から、太陽と月が信仰の対象となったのかもしれない。


それにしても、自分の住む近くの村に、千年以上も戒律を守り、祭礼を続けてきた所があるとは、思ってもみなかった事だ。
祭りのハイライトには、この高さ十数メートルある大きな幟を、村人全員で、海岸通りを仮宮まで引いていく。
この幟は2本あり、ここにも日天、月天が祭られている。

なかなかスムーズにはいかず、何度もの倒れ、その度に周りの見物客が逃げまわる。


倒れることにも意味があるらしいが、時間がかかりそうなので、私は途中で退散した。

2011年7月15日

木の国・根の国への旅  最後に

四日目は、この旅の一つの目的だった「那智の火祭り」に向かう。


熊野那智大社の御神体は、落差113メートルの大滝である。
縄文時代から続く、この島国の住民の信仰対象は元々「自然物」なので、山や巨木等が御神体になる例は各地にある。

その古来の信仰に、後々の征服者が自分達に都合のよい神話を被せていくので、構造が二重、三重に複雑化されているが、本来はシンプルなものだ。

この滝も間近に見上げると、御神体にふさわしい迫力と神々しさを備えている。
別格の存在感を持っているので、古代人でなくとも手を合わせたくなる。
滝の姿を表した「扇神輿」12体に、熊野の神々を乗せる。
松明に先導され、扇神輿が参道の階段をゆっくり下りて、大滝に向かう。
火祭りとは言っても、そんなに荒々しいものではなく、むしろ厳かな印象がある。


翌日訪れた神倉神社の「御燈まつり」は、同じ火祭りでも全く対照的な、荒々しい祭りだ。
残念ながら祭りは2月開催なので、観ることは出来なかったが、この神社は最も”熊野”を感じさせてくれる場所だ。
山上に向かう538段の石段は、斜度がおよそ40度以上はあると思われる急斜面で、それが巨大な龍のように、うねりながら天に向かって伸びている。

参道と言うような生易しいものではなく、手を付いて、這うように登らなくてはならない。

2月の祭りには、この石段を白装束の男たちが、松明を振り上げ、駆け下りてくるそうだが、現地に立つとそれは想像もつかないほど、神懸かりな荒業である。
御神体はこの巨岩・ゴトビキ岩
社が岩に食い込むように建っている。
祭りになると二千人の男達によって、山は火に包まれる。

この神社の御神体は巨岩であるが、ここから1時間程の所にある「花の窟神社」(ハナノイワヤ)の御神体は更に巨大で、岩と言うより山に近い。

日本書紀にこの場所の記述があるそうで、例によってイザナミノミコト等、神々の神話に関連付けられて語られているが、本来はここもシンプルな自然信仰の場所だ。

ここの祭りは、小山のような御神体に縄をかけ、それにまた花々を飾り付けるという、まるで神と綱引きを楽しむかような、微笑ましいものだ。  
この窟のすぐ横は海で、それも目の覚めるような美しいスカイブルーの光を放っていた。
予想もしていなかった程の美しさなので、しばらく見とれてしまった。

地元の人の話では、流れが速く、急に深くなるので遊泳は危険らしい。

ここが熊野の旅の最後となる。

最終日に、一番熊野らしいところを訪ねることが出来たので、幸運だった。
”熊野らしい”とは、この島国の先住民たちが持っていた、原初的な精神世界を持ち続けていることだ。
わずか五日の小旅行だったが、「熊野のエッセンス」を充分いただいたような気がする。
電車を待つ僅かな時間、小腹が減ったので駅前の小さな食堂に入り、冷たいビールと寿司の盛り合わせを頼んだ。
どうみても見栄えのしない、古びた食堂だったので、何も期待していなかったが、この寿司がとても美味くて感動した。


お陰さまで、旅の最後を気分良く締めくくってもらった。

2011年7月13日

木の国・根の国への旅  その参

翌朝は早く起き、バスで「熊野古道」の入り口に向かった。


強い日差しの中、そしてまた森の中は大変蒸し暑く、熊野本宮大社まで3時間の道のりは結構厳しかった。




現在の熊野本宮は明治になって移築されたもので、古来より熊野信仰の対象になっていた社は別の場所にあった。

熊野川と岩田川、音無川が合流するところに、木々が茂る大きな中州がある。
ここは大斎原(オオユノハラ)呼ばれ、かつて熊野本宮大社はここにあったが、明治に起きた川の大氾濫で社が流され、高台に移動することになった。

上皇法皇をはじめ、中世の庶民までが、競うように熊野詣を行ったが、すべてこの大斎原を目指したのだ。

川の中州に神殿を設けるのは極めて異例だと思うが、この場所が特別に選ばれた”聖地”だったのは間違いないだろう。
明治22年の大洪水で社殿は流されて、現在はこの大鳥居が残るのみである。


鳥居を潜ると、杉の巨木が奥に向かって並んでいて、頭を押さえ付けられるような圧迫感がある。

その奥に1万坪の敷地に、12の社殿が並んでいたとされる平地が広がるが、今はシンと静まった草地があるのみだ。


天上からスポットライトを浴びせたような場所で、選ばれた場所であることを感じさせる。
峠から大鳥居を見下ろす

しばらくは、この何もない中州でボンヤリと時間を過ごし
再びバスに乗り、川湯温泉の古びた旅館に宿をとった。


深夜に、窓の外が明るので目が覚めた。

黒い山に満月が上がり、その光が川に反射していた。


2011年7月12日

木の国・根の国への旅  その弐











高野山の宿坊に泊まり、翌日は、ずっと南に下り白浜に向かった。


途中で落雷のため電車が止まり、臨時のバスに乗り換える羽目となり、2時間以上遅れてしまった。



しかし、幸運なこともあった。

途中の車窓より、水平線から始まり、反対側の山に沈む、空を全て覆う見事な虹を拝むことが出来た。


こんな虹は、生涯で何度も見られるものではないと思う。










宿に着いた頃には、すっかり日が陰ってしまった。

2011年7月11日

木の国・根の国への旅  その壱

本来ならば4月に、北東北へ縄文の遺跡を巡る旅の続きをするつもりだったが、今回の震災で延期となってしまった。

その代わりというわけではないが、「熊野」を知る旅へ行ってきた。

数十年前にも訪れたことはあるが、その時は私の愛読書であった、中上健次氏の生まれ故郷に行くためだけの短い旅だった。








紀伊半島は人を寄せ付けるのを拒むかのような、厳しい峰々が連なった土地である。


それ故に京の都に近い場所にありながら、神々の棲む場所として、信仰の対象として永らく信じられてきた。




ヤマトの国家が出来る以前の、縄文的な精神世界は、すでに何重もの厚いカーペット下に隠されているので、簡単にはそれをうかがい知ることは出来ないが、東北と並んでここ「熊野」は、それを感じ取れる可能性のある貴重な場所である。









第一日目は、空海が信仰の聖地を求めた高野山に向かった。


切り立つ山々の間を、登山列車は鉄輪を軋ませながら、ゆっくりと登っていく。
終点からさらに急斜面をケーブルカーで登り、そしてまた山道をバスで上がっていく。


しかし、たどり着いたところは、それまで目も眩むような急な山々を通ってきた事が信じられないような、何ともアッケラカンとした平らで、穏やかな町だった。

この山岳都市に真言密教の117の寺と1000人の僧侶が暮らしているが、このような場所をよくぞ捜し当てたものだと感心する。



金剛峯寺 根本大塔











真言密教の教えの中心にあるのは「大日如来」=宇宙を成り立たせているもの、であるが、その教えを具体的な形に表したのが、この根本大塔である。

この中には、大日如来を中心とした諸仏が収められているが、この塔その物も大日如来の姿を表している。

空の青さと、塔の朱色のコントラストが目にも鮮やかで、その明るい存在感が、太陽を象徴するこの如来のパワーを感じさせてくれる。






この宗教都市の一番東の奥には、現在も空海が永遠の瞑想を続けているとされる御廟があり、そこへは毎日食事が運ばれている。

ここで修行僧に短い説法を聞いたが、空海の姿を見たという話は色々と伝わっているようだ。



誰も居ない、この御廟の前にしばらく座っていたが、静けさの中で僅かに清流の水音が聞こえ、いかにも神聖な場所と感じた。

2011年7月10日

縄文の絵画

青森の三内丸山遺跡の縄文土器片に、「人物画」が描かれていたことが、チョッとした話題になっている。http://mytown.asahi.com/aomori/news.php?k_id=02000001107090003


何故なら、縄文時代の”絵画”が出てくるのは極めてまれだから。

あれだけ沢山の、それも創造性の高い土器が、多くの場所で出土されているのに、どういうわけか縄文の絵というのはほとんど出てこない。

土器制作のレベルから考えてラスコーの洞窟画クラス絵画が、いくつ出てきても少しもおかしくないと思うが、今のところ土器に線描きした程度のものしか無い。



土器のような立体造形には熱心だったが、絵画のようなものにはあまり関心がなかったのだろうか?


私は”絵”はあったと思う。
それが、たまたま後世に残る形ではないもの(例えば砂絵のとか、木や石に直接描いたり等)だったので、現在の我々には見ることが出来ない、と想像する。




縄文のアーティストに、絵具とキャンバスを与えたらどんな絵を描くのだろうか?

とてもワクワクする夢である。

2011年7月8日

湯のように

2005年に岡山県・朝寝鼻貝塚でモミが見つかってから、稲作は6500年前の縄文中期から始まったのではないかと言われている。




 もっともその頃の稲作は、焼き畑農業のようなものだったので、現在のように田んぼに水を入れる「水稲栽培」の技術は、弥生以降にもたらされたようだ。




 水を入れた田んぼには、雑草・連作障害の防止、温度の安定化などの効果があり、米作りにとっては画期的な技術だったので、弥生以降は飛躍的に生産量が増加したと思う。




 ただし、文化的には稲作が普及する前の、縄文時代の方がはるかに豊かだった。
残された土器などを比べてみれば、その成熟度、精神性の高さに圧倒的な差がある。


 おそらく、稲作が普及するにつれて生産の”効率性”が意識され、縄文人が持っていた独特の”創造性”が希薄になったと思われる。


 そして、それは現在にまで繫がっている・・・・・








 この時期、天気の良い日に田んぼに入ると、水があまりに温かくて驚くことがある。


おそらく40度近いぬるま湯になっているので、原種が熱帯性の植物である稲にとっては心地よいことだろう。


 しかし、水に強い周辺の草も一緒に成長するので、これから何回かは、草取りが欠かせないことになる。



2011年7月5日

もうすぐ梅雨も終わりに





まだ梅雨の季節は続いているはずだが、ここ暫くはまとまった雨が無かった。

今は、昨夜から続く強い風と雨が、空を暗くしている。



1週間ほどここを離れて東京にいたが、室内に置いていた観葉植物はすっかり弱ってしまった。
すぐに裏の田んぼに、苗の様子を見に行ったが、田植えから3週間経った苗は強風の中でしっかり立っていた。


米は強い植物である、とつくづく思う。


私のようにずぼらな人間で、あまり世話もしなくても、何とか成長してくれる。
他の野菜では中々こうはいかない。手を抜いた結果はすぐ表れる。











数千年も、この島国の人間の生命を支えてきた米だが、一人あたりの消費量は、この10年で半分になってしまったらしい。


高い金を出して輸入している小麦や他の穀物より、100%自給できる米をフルに使うことを考えないと、近い将来、食料の確保さえ危うい国になってしまうのでは?