2011年10月24日

稲刈りも終わり







今年もやっと稲刈りが終わった。








9月の大型台風で複雑に倒れた稲を、起こしながらの作業だったので、思った以上に時間がかかってしまった。

若い衆の手伝いが無かったら、途中でめげていたかもしれない。





ここを借りての稲作は3年目になるが、肥料も農薬もやらず、ろくに面倒もみていないのに、チャンと収穫が出来るようにしてくれるのだから、米と言う作物は大したものだ。



オツカレ!

2011年10月18日

精霊と曽根崎心中


NY在住の現代美術家杉本 博司氏が、文楽「曽根崎心中」を、大胆にリメイクして公演を行ったことをテレビの番組で知った。

テレビの小さな画面で、しかもその一部を放映したものを観ただけだが、文楽の既成概念を大きく打ち破りつつも、大変感動的な演出となっていた。

ぜひ生で観てみたいが、3日間だけの公演で終わってしまったようだ。


彼が写真を使ったアーティストであることは知っていたが(その作品もとても興味深い物だ)、文楽の演出まで行うなど、古典に対する深い知識とその才能に驚いた。




番組の中で縄文時代を取り上げていて、「縄文人が持っていた感性を現代に表現する」と語っていたのが印象に残った






3年前に作った作品を再び引っ張り出し、それに台座を付けたした。

古布をちぎり、鋲で張り付けることを何度も繰り返し、台座部分と本体とを銅や真鍮の線で固定する。

タイトルは以前と変わらず「精霊たちの家」。


杉本氏を引き合いに出すのは恐縮ものだが、私も「縄文人が持っていた感性を・・・・・・」のつもりだ。

2011年10月8日

ジョウモンの旅 - 北東北編④

さすがに青森はリンゴの町。
街道沿いに延々とリンゴ畑が広がり、そのスケールの大きさに驚く。

丁度今は収穫期を迎えたようで、甘い香りが辺りに漂っている。
(宿の風呂にも、リンゴが沢山浮かんでいた。)



そんなリンゴ畑を横目に見ながら、5,6日目は岩手県に入る。

北東北と北海道の南部を、縄文文化をテーマにした世界遺産に登録させたいらしく、この地域で色々運動をしているようだ。
資料館なども新築・改装されたところが多く、力の入れ具合が良く分かる。


よく縄文は日本の”基層文化”である、という言い方をされるが、本当にそうだろうか?
確かに、この島国の先住民は縄文人であるから、見えない地下水のようにその影響はあるのかもしれない。

しかし、現代のどこを見渡してみても、縄文をベースにした文化の産物など探すのは難しいし、むしろ弥生以降は全く別の文化が支配したと考えた方が良い。

「縄文の神」と「弥生の神」は全く別物だ。


それでもあえて探すとなると、日常を離れた風俗習俗の中に、ひっそりと生き残っているものに注意を向けるしかない。
オシラサマ
それは最初に取り上げた「ナマハゲ」だったり、この地域で続けられていた「オシラサマ」などのような民間信仰の中に、その片鱗が息づいていたように思う。 


遠野盆地
山々は日を受け明るく、田も黄金色に
輝やき美しい場所だった。
縄文的なものとそうでないものとは、一体どこで線引きをするのか?
これは自分でも、ハッキリと言葉で表すのは難しい。

”自分を取り囲む、見えない力に対して有機的な関係を持っているかどうか”・・・・・  小難しく言えばそんなところになる。


作品の題名にスピリッツ(精霊)の文字を入れることが多いが、それも「見えない力」を意識してのこと。

悪路王とされた蝦夷のリーダー「アテルイ」
旅の最後に北上市にある「鬼の館」に寄ってきた。

東北には沢山の鬼がいる。
ナマハゲももちろんその仲間だが、北のエミシたちは全て鬼にされたのではないか。
「ススカ」
ナマハゲと似た存在だが
こちらは大船渡に現れる。
縄文的なるものを求めて、6日間で2.500キロを足り回ったのでだいぶ疲れた。
見たいものが沢山あるので、ついつい盛り込みすぎる。

でも東北にはまだまだ面白い物が、コロがっていそうな気がする。
次回は的をもっと絞ってから訪れたい。  

2011年10月6日

ジョウモンの旅 - 北東北編 ③

三・四日目は青森に入る。

いくつもの遺跡、資料館を駆け足で見て回っているので、だいぶ頭が混乱してきた。











津軽地方は、このような明治・大正に建てられた洋館が多いそうだ。
縄文とは全く関係ないが、和洋折衷のこのような建物に最近興味を持っている。

和と洋を独自にミックスしているところが面白い。

機会があれば、そのようなものも見て回りたいと思う。

津軽平野のどこからも、この岩木山が見える。
そしてこの山の周辺に、沢山の遺跡が残されている。



クマ
イノシシ



八戸の「是川遺跡」からは、縄文晩期の土器・土偶が数多く出土している。
一般的に縄文晩期の出土品は「亀ヶ岡式」と呼ばれるが、技術的にも高度であり、繊細なデザインのものが多い。

漆を施したものも沢山あり、色彩、形、技術などが結集し、これらが縄文土器のひとつの到達点であるともいえる。

ただ、縄文中期にあった妖しげなでダイナミックなところが薄くなっているので、私にはやや不満である。
                
国宝となった”合掌する土偶”は
別室で厳重に管理されていた。






西洋の冠を思わせるようなデザイン
非常に薄く焼き上げているので、実用品
ではなく、別の用途があったと思われる。




2011年10月4日

ジョウモンの旅 - 北東北編 ②

各地で出土したもので一番良い物は、その地域の県立博物館にあることが多いので、どうしてもそこは外せない。
そこで翌日は「秋田県立博物館」に向かった。


今まで数多くの縄文土器・土偶を見てきたが、それでも「こんなものもあるのか!」という驚きの出会いも少なくない。

この島国の各地で、1万年以上も続いてきた文化なので、その全てを知ることなど出来る分けもないが、豊かな創造性には毎回、感嘆させられる。








通常どの博物館も時代順に展示されているが、ここも旧石器時代に始まって、縄文→弥生→古代(古墳時代)と並んでいる。
その古代の展示ブースにサブテーマのパネルがあり、そこに「進出する国家、抵抗するエミシ」と書かれてあった。

縄文人の末裔である古代蝦夷の人々・・・・・。

どうも最近は縄文より「古代蝦夷」の方が気になっている。
なぜなら文献上は確かに存在していた人々なのに、その存在を示す資料がほとんど無いからだ。

どんな服を着て、何を食べ、どんな道具を持ち、どんな文化を作り上げていたか、ほとんど何も無いに等しい。
この博物館でも日本書紀などの文献に、蝦夷の記述があるのを紹介する程度で、その実態はほとんど何も分からない。
ここのパネルにあったように、進出するヤマト朝廷に完全に駆逐されて、歴史上から抹殺されてしまったかのようだ。

実際は陸奥の安倍氏、出羽の清原氏、そして平泉藤原氏四代へと、エミシの流れをくむ者たちの歴史も存在するのだが、その中身については何れまた探ってみたい。



大館市郷土博物館の「ニンギョ」


大湯ストーンサークル




2011年10月3日

ジョウモンの旅 - 北東北編 ①

関東、中部、北陸、南東北と縄文の遺跡を訪ねてきたが、その締めくくりともいえる、北東北(秋田・岩手・青森)を廻ってきた。

全国に縄文の遺跡は数万ヵ所もあるが、その8割以上は東日本にある。特にこの北東北はそれが集中している所である。

かつては、落葉広葉樹林の森がこの東北の大地を覆っていたが、それが豊富な山の幸を産み出し、縄文の人々の生活を支え、そして独特な文化をもたらした。



そして、それは縄文以降も永く引き継がれ、蝦夷(エミシ)と呼ばれた人々の世界がこの東北に創られていた。


奈良時代以降、西からの朝廷軍に屈伏させられるまで、少なくとも宮城県の南までは”日本”ではなかった。
ここは縄文人達の末裔たちが暮らす、別の世界があったはずだが、今となってはその痕跡を見つけるのは簡単ではない。


それでも目を凝らしてみれば、その片鱗くらいは触れることができるのではないか、との淡い期待の旅である。

東京から車で向かい、まず最初に訪れたのは、秋田県の男鹿半島。 目的は「ナマハゲ」である。
男鹿半島には60の集落があるが、現在でも全ての集落で、大晦日の晩にはこの「ナマハゲ」が続けられているそうだ。 

各集落ごとに、その面のデザインが異なっていてとても興味深いが、どこか南アジア風の雰囲気が漂っている。 
                     
年に一回、お山から神様が降りてきて、家々を回るという信仰に基づいた行事ではあるが、「ナマハゲ」に扮する村の若集は、そのための数週間の準備の中で、実際に山の神に憑依していくのだろう。

間近で演じて見せてもらったが、その迫力は大したもので、子供が縮み上がるのも納得できる。

入道崎に夕日が沈む