2012年8月23日

不思議な「アレブリヘス」

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メキシコのオアハカ州で作られているウッドカービング・・・・通称「アレブリヘス」

数種類の動物を合体させ、この世には存在しない生き物を創り出し、その上に精緻な装飾を施す。

その自由さと、毒々しいまでの存在感に目を奪われた。



ふっと「彩色された縄文」を思う。



こんなものが、民芸品として作り続けられているメキシコの町にとても興味を持った。
機会があればぜひ訪れてみたい。





2012年8月9日

その後の田んぼ





 4月に休耕田の復田を始め、6月に田植えをしてから約2ヵ月が過ぎた。

全くの無肥料ながら近所の農家が驚くくらい、勢い良く成長している。


10年間休んでいた田んぼなので、有機物が沢山沈澱しているおかげなのだろう。


稲の成長は勢いが良いが、それに負けず田の草達も大きくなっているので、その草取りがなかなか大変。

でも、今年は東京の女子コンビに2回も助けてもらっているので、だいぶ助かっている。



2012年7月22日

馬の神

隣町に農家を改築したレストランがあると知り、昼飯を食いに行った。

田んぼに囲まれたそこは、門構えも立派で豪農の屋敷であったと思わせるが、内部はやや”改築し過ぎ”の感があり少し残念だった。




店を出て、駐車した場所とは反対の方向へ歩いてみた。

車一台がやっと通れる細い道が続いていたが、少し歩くと片側は巨大な岩山である事に気が付いた。








その岩山には、所々に巾50センチ程の穴が掘ってあり奥へ続いていた。人間がやっと入れる程度の細い入口だが、穴はいくつもある。

中は真っ暗で細かい様子は何も分からないが、それぞれが繫がっていて往来できるようになっている。


これは、おそらく防空壕だったのだろう。




館山は軍事基地のあった所なので、こういうものは町の中に、まだまだ沢山残されていると思われる。





そして岩肌には多数の「馬頭観音」も安置されていた。

この場所と馬頭観音との繫がりは何も分からないが、巨大な岩山をくり抜いて置かれた観音像と防空壕の暗い穴が、ここを特別な場所にしている。









近くの民家の入口に、梵字が書かれた木製の燭台が立てられていた。

この時期なので、祖先の霊を迎えるために置かれたものと思われるが、私にとっては初めて見た形だった。

 これが又、その場の雰囲気と相乗効果を発揮して、何とも言えない空間を創り出している。





近くの場所にも、まだまだ知らない世界が沢山あるものだ。












2012年7月12日

仏の色









成田山新勝寺の三重塔は1712年に建立されたものだが、昭和になってから当時の古文書を基にして漆塗り・彩色が再現された。

一般的な古寺に建つ同様なものとは違い、極彩色に彩られたその塔は独特な存在感を示し、異彩を放っている。





寺社仏閣と言えば”枯れた色彩”という固定観念は、おそらく近代以降の誤ったイメージなのだろう。



人類の巨大な想像力は、世界中で宗教という創造物を積み上げてきたが、天上の姿は極彩色こそ相応しい。


そして仏の力は、この色の中に宿っている。











2012年6月30日

赤い花と白い壺






毎年この時期に咲く「ディゴ」の花。


花の名前は今日初めて教えてもらった。
 
南国の花で沖縄が北限ということになっているようだが、ここでも毎年咲いている。






数週間経つと一斉に落花し、赤い花びらが血を流したように大地を染める。

その鮮やかさも、見ものである。






2012年6月28日

モンモンの木





春の木(梅です。)をテーマに作った小品だったが、焼き上がったのが今になってしまった。

”半農”のつもりで始めたのが、つい規模を広げ過ぎて時間を取られ過ぎてしまった。

反省、反省。













でも、機械に頼らずにどこまで出来るかが良く分かったので、まあ良いとします。



2012年6月4日

水を張る





昨夜、まとまった雨が降ったので、3枚目の田にも水を張る事が出来た。
これでやっと田んぼの形が出来た。


このひと月は、田んぼを復活させる作業に殆んど時間を取られてしまった。


もうすぐ梅雨となる。
来週から田植えを始める予定。







2012年5月28日

その後の復田・・・



苗の方は順調に育っているが、復田作業の方が止まっている。


雨が少なくなり、水量が不足しているのが主な原因だけれども、この仕事は結構重労働なので少々疲れてきて、作業のスピードが落ちてきた。


特に最後の3枚目の田んぼは、後方の竹林から根が進出しているので厄介だ。


竹の根というのは恐ろしく頑丈で、根というよりは、竹そのものが地中を這っているかのようだ。





今日は朝から5月の涼風が吹く良い天気で、近所の若猫たちがデッキの上で戯れている。
そんな姿を見ていたらやる気が失せたので、今日は何もせずに1日を過ごすことに決めた。



2012年5月14日

復田4日目

復田を始めて4日目で、何とか1枚目の田んぼが仕上ったので、2枚目に入ったところで腰にきた。


田んぼに残った根っこを、むきになって掘り出そうとしたのが祟ったようだ。


残念ながら2,3日は作業を休むことにする。









2012年5月9日

やっと復田開始・・

3月には始めるつもりだった、家の前の休耕田の耕作をやっと手を付ける事が出来た。

色々と手を出し過ぎて、自分の事が後回しになっている。








あらかじめ、ユンボで葦や竹の根っこをほじくり返してもらっていたが、まだまだ地中に根が残っている。

畦も痩せてしまったので、土をのせながらクロを整えていく。




水を入れて、耕運機を回したので少し田んぼらしくなってきた。(今年は幸運なことに雨が多い。)


でも、やっと一枚目。
後2枚もある。



田んぼを元に戻すのは大変だ。

2012年4月20日

窯焚きのテスト

もう半年以上にもなるが、自作の窯で何とか土を焼きたいと思い、少しづつ実験を進めている。

土器程度の低温で焼く物なら、今の「囲炉裏式」で十分だが、それ以上の高温でとなると、色々と工夫が必要となる。


既成品の窯を買ってもつまらないので、少しづつ試みているのだが、「少しづつ」過ぎて、あまりにも時間がかかっている。




今やっているのは、スペースシャトルにも使われたという「グラスファイバー」を窯の内側に貼り、周りをレンガで囲んだものだが、これが段々うまく行き出して、炉内の温度もおそらく1200度程度には上がってきているようだ。


専用の温度計があればもっと正確に分かるのだが、これが5万円近くするので「感」だけの測定になる。





色々テストピースを焼いてみたが、だいぶ焼き物らしくなってきた。


2012年4月12日

彩色☆色縄文壺











縄文人は文字を残さなかったけど、「言葉」は持っていたはず。

「言葉」は形を持っていないから、後世の者がそのカケラを探し出すことは簡単にはできない。

だけど、意外に極々身近に使っているのかもしれない。



文字が「器」だとすると、言葉は「色」に当たる。


器は残るけど、「色」は残らない。


だから言葉は「色」に似ている。





縄文の色とは?・・・・・  


確かに漆を使った黒や赤茶は残っているけど、もっと言葉のように豊饒な「色」があったのでは、と想像してしまう。




・・・

2012年4月6日

サクラ 咲く・・・・・・四足の壺





我が家の庭では、梅の花 → プラムの花 → そして桜の順番で春が訪れる。



桜はまだ若いので、盛大な花を咲かせるまでには至らないが、年々その勢いを増しているのが伝わってくる。








足を持った春の壺はその勢いをシカっ、と受け止める











2012年2月27日

醤油絞り












一年間寝かした「もろみ」を絞って、今日は醤油絞り。


絞りたての醤油は透明度が高く、まるでワインのよう。



味もさっぱりしていて、茹でたうどんにそのままかけて喰ったら、うまい、うまい。





2012年2月22日

九州島 熊襲の国


明治維新の人々を描いたドラマを観て、西郷や大久保の心の拠り所になっていた「桜島」を観たくなり、急遽、鹿児島に向かった。




海の中に突き出た、巨大な活火山「桜島・御岳」。
なるほど、その存在感は独特のものがあり、富士山とはまた異なった魅力がある。


対岸の浜辺に座り、しばらくその姿を観ていたが、途切れることなく噴煙が上がり、まさしく活きている山であることが、ジンジンと伝わって来る。


人の住む町の近くで、このように大きな活火山と共存している事は、初めて来た旅人にとっては何とも不思議な感じがする。


ここで生まれ育った人にとっては、やはり格別の意味があるのだろう。





上野原遺跡





全国に数万はあると言われている縄文遺跡の8割は東日本にあるが、ここにも一応遺跡はある。


私が知っている範囲では最も南にある遺跡で、規模もそれなりに大きが、出土品に目立ったものは無く、残念ながらもう一つ魅力が無い。



しかし、その先住民である縄文人の流れをくむ人々は、ここでも確かに存在していた。

熊襲(クマソ)、隼人と呼ばれていた者たちだ。

隼人塚
征服された隼人族の怨霊を
治めるために立てられたとされる。


ヤマト政権から”化外の民”とされた東北の蝦夷と同じように、ここでも独自の文化を持った民族が生き続けていたが、やはり殆んど資料が残されてなく、その実像を知るすべは殆んど無い。








トンガリ帽子型の復元住宅
この形は初めて見た。